神戸女子大学・神戸女子短期大学   須磨キャンパス図書館

 

               

展 示

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■2020年度   Winter

        
        
須磨に来た人
 

 
在原行平も菅原道真も平義経も松尾芭蕉も伊能忠敬もラストエンペラーも みんなみんな須磨にやってきた。須磨に来た人々の歴史的資料を図書館所蔵 品でご紹介します。

       
 

在原行平(ありわら の ゆきひら)818年-893年


平安時代前期の公卿、歌人。『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。
 文徳天皇のとき須磨に流され、須磨の海岸に汐汲みに来ていた多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」姉妹を見初め、「松風」「村雨」という名を与えて側に置いた。
 伝説、地名、古典芸能などに話が伝わっている。


摂津名所図会 / 秋里籬嶌著 ; 竹原春朝斎画 ; 巻之八の下.
20911027/ 所在: 貴重 / 請求記号: 291||41||8-2




菅原道真(すがわら の みちざね)845年-903年

平安前期の政治家、学者。
 宇多・醍醐両天皇に仕え、重用されるが、藤原時平の中傷によって大宰府に左遷された。
 左遷の途次に沿って伝説が地名に残されており、須磨においては、一時上陸した際、漁師たちが綱を敷いて円座を作りその上に道真を休息させたという「綱敷天満宮」、道真を慕って京都から松が飛んできたという「飛松町」など多数あり。


須磨記 / 岩田友靕, 宮地又太郎著. -- 菅公須磨記発行所, 明治35 [1902]. -- 1冊 ; 22cm.
30892613/ 所在: 2階ガラス書架 / 請求記号: 915||Iw

『須磨記』は、菅原道真が右大臣に任官したものの藤原時平の讒言によって太宰権帥への左遷が決まり、都を離れて海路須磨に至るまでの心境が描かれているが、菅原道真の自作を装って難解な表現を使っているため、詳しい注釈書が作られた。この本は寛政4年(1792)に岩田友靕が注釈をつけたものを、子孫が見つけ、明治35年(1902)に活字で刊行したもの。




藤原師長(ふじわら の もろなが)1138年-1192年

平安時代末期の公卿。
 平安時代を代表する音楽家で、特に箏や琵琶の名手として知られている。
 若い頃、中国に渡って琵琶を学ぼうとしたが、須磨で村上天皇と梨壺女御の霊に琵琶の秘伝を教えられ、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。この伝説は、能の「玄象/絃上」に残
されている。


謡曲画誌 / 中村三近子編 ; 卷之4. -- 田中庄兵衛[ほか], 享保二十年
2179555 / 所在:貴重 / 請求記号: 五-2-6-3

全50曲の謡曲の解説本。最初にあらすじと故事伝承があり、物語を絵画化したものが1,2枚つく。
小屋にいる塩焼きの老夫婦、実は村上天皇と梨壺女御の霊。




平重衡(たいら の しげひら)1157年-1185年

平安時代末期の平家の武将。平清盛の五男。
 重衡は清盛の命により、興福寺、東大寺の堂塔伽藍に火を放ち、多数の僧侶が焼死した。この時に東大寺の大仏も焼け落ちた。
 一ノ谷の戦いで梶原景季らに捕まり、松の根元に腰掛けて無念の涙を流したとき、村人に酒をふるまわれた。


源平盛衰記 48巻 ; 20. -- 前川善兵衛, [18--].
21915161/ 所在: 貴重 / 請求記号: 913.434||Ge||20

鎌倉時代の軍記物語。四八巻。作者、成立年代ともに未詳。源平の興亡、盛衰を多くの挿話、伝説、故事をまじえつつ描く。「平家物語」の異本の一種とみられる。




源義経(みなもと の よしつね)1159年-1189年

平安末~鎌倉初期の武将。源義朝の九男、源頼朝の弟。
 母が再嫁したので鞍馬山に送られ仏門に入ったが、鞍馬山を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡の庇護を受ける。1180年兄頼朝の挙兵を聞いて平家掃討の大将軍となり、一ノ谷で平家軍を撃破して、屋島、壇ノ浦の戦いで平軍を全滅せしめたが、頼朝の勘気に触れ、追放され自害した。


寿永三年二月一ノ谷源平大合戰図 / 一寿齋芳員画. -- 有田屋清右エ門, [出版年不明]. -- 版画1組 (3枚) : 木版, 多色 ; 37.7×25.1-37.3×24.8cm. k.
30911888 / 所在: 2階事務室・カウンター / 請求記号: 721.8||Ju

大版錦絵3枚続。一寿斎芳員こと歌川芳員(うたがわよしかず)は歌川国芳門人の浮世絵師で、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した。
義経のほかに、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)もいます。須磨の海に平家の舟が見えています。




平敦盛(たいら の あつもり)1169年-1184年

平安末期の武将。平清盛の甥。笛の名手。
 平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。須磨の浜で敵将熊谷直実が敦盛の首を斬ろうと兜を取ると、我が子と同じ年頃の美しい若者だったため、涙ながらに敦盛の首を切ったという逸話が、物語や能、幸若舞、文楽、歌舞伎などの題材となった。


敦盛外傳青葉笛 / 高井蘭山著 ; 一峰齋馬圓画 ; 卷之2上. -- 河内屋茂兵衛. -- 6冊 ; 22×16cm.
30819313 / 所在: 2階ガラス書架 / 913.56||At||2

平敦盛の伝記。一峰斎馬円は葛飾北斎の門人。
敦盛は比類なき美少年で、10歳のころより管弦の道を好み、笛の名手で、祖父が鳥羽院から賜った「青葉の笛」を譲られた。
「青葉の笛」は、今も須磨寺宝物館に展示している。




熊谷直実(くまがい なおざね)1141年-1207年

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。


熊谷蓮生一代記 7巻 / [葛原齋仲通著] ; 卷之三. -- 丁子屋平兵衛 : 大嶋屋傳右衞門 : 菊屋幸三郎 : 釜屋又兵衞. -- 7冊 : 挿図 ; 23cm.
30880153 / 所在: 2階ガラス書架 / 請求記号: 913.56||Ku||3

熊谷直実の家系から始まり、一の谷で敦盛の首を取ったことからの発心、相続争い、法然上人の下へ出家など熊谷直実の伝記。




松尾芭蕉(まつお ばしょう)1644年-1694年

江戸前期の俳人。
 それまでの俳諧を革新して没年まで各地を行脚し、わび・さび・軽みなどの蕉風俳諧をきわめた。
 『冬の日』『曠野』『猿蓑』などの句集や紀行文『笈の小文』『野ざらし紀行』『奥の細道』などがある。


笈の小文 ; 更科紀行 ; 嵯峨日記 : 現代語訳付 / [松尾芭蕉著] ; 上野洋三編. -- 和泉書院, 2008.3. -- v, 94p ; 21cm.
30999374 / 所在: 3階N1 / 請求記号: 915.5||Ma

芭蕉の俳諧紀行。
1687年10月江戸をたち、名古屋、郷里伊賀上野、伊勢神宮、高野山、和歌山を経て奈良に到着、さらに大坂から須磨、明石まで漂泊した際の紀行文で、成立年時は1690年(元禄3)晩秋から翌年夏ごろまでの間と推定される。




伊能忠敬(いのう ただたか)1745年-1818年
江戸中期の測量家。
 若いときから学問を好み、50歳で隠居すると江戸に出て天文学を学んだ。当時、正確な暦をつくるうえで必要な緯度1度の里程数が定まっておらず、天文学上の課題になっていた。この解決のために忠敬は55歳から71歳まで、延べ3736日、測量距離4万3708キロメートル、方位測定回数15万回で全国を測量。子午線1度の長さを割り出し、正確な日本の地図を作った。


伊能忠敬測量日記 / 伊能忠敬 [著] ; 佐久間達夫校訂 ; 第2巻. -- 大空社, 1998.6. -- 6冊 ; 27cm.
30353947 / 所在: 3階N20 / 請求記号: 289||258||2

文化2年(1805年)10月8日から9日、須磨を測量


伊能大図 / [伊能忠敬著] ; 横溝高一, 戸村茂昭, 竹村基編集協力 ; 近畿・中国・四国. -- 河出書房新社, 2013.12. -- 31cm. -- (伊能図大全 / 渡辺一郎監修 ; 第3巻). a.
30964952 / 所在: 3階U3 / 請求記号: 291.038||In||3

『大日本沿海輿地全図』 伊能忠敬が作成した日本最初の実測日本地図。忠敬は測量が一段落進むごとに、3万6000分の1の縮尺で製図し、これをまとめて長さ6尺、幅3尺ほどの大図にした。大図は214枚あり、大図を6分の1に縮小して縮尺21万6000分の1の中図8枚、これをまた2分の1にして縮尺43万2000分の1の小図3枚を仕上げた。




香川景恒(かがわ かげもと)1823-1866年
江戸時代中期の歌人。京都歌壇の重鎮。
 1847年、歌仲間とともに京より舟を出し、須磨で案内の老人を頼んで、須磨寺、内裏の跡、一の谷、敦盛の塚を見物した。
 景周は 景恒の前の名前。


須磨日記 / 香川景周編. -- 出雲寺文治郎.
30835788 / 所在: 2階ガラス書架 / 請求記号: 915.5||Su




鈴木よね(すずき よね)1852年-1938年
大正期の日本一の商社「鈴木商店」の女主人。
 夫没後社業を継ぎ、番頭金子直吉とともに鈴木商店を大商社に育てあげたが、昭和2年の大恐慌で倒産した。
神戸栄町通から移り住んだ須磨区若木町の邸宅は4,000坪の広大な屋敷で、須磨は関西在住財界人の御屋敷町としても知られていた。


波の音 / 鈴木よね遺稿 ; 松本三平編. -- 松本三平, 1939.4.
30819344 / 所在: 2階ガラス書架 / 請求記号: 911.16||Ma

鈴木よねは実業界で活躍するなか早くから和歌、俳句、茶道などに造詣があり、昭和3年にその所作300首を纏めた『鈴の音』を上梓した。その後さらに歌集を出版予定だったが急逝したため、遺稿集として出版された。




福羽逸人(ふくば はやと) 1856年-1921年
園芸学者、造園家。宮内省で長く宮廷園芸技師として日本の近代園芸の基礎を築いた。
 西洋の花弁、果樹、野菜の品種改良などに多く貢献をしたほか、新宿御苑の庭園設計をはじめ、大正天皇の別邸として「武庫離宮(現須磨離宮公園)」の設計を行った。


回顧録 / 福羽逸人 [著]. -- 国民公園協会新宿御苑, 2006.4. -- 2冊 ; 20cm.
30676336 / 所在:2階K2 / 請求記号: 289.1||Fu||1

2003年に福羽家で福羽逸人の8冊の『回顧録』が発見された。公職から身を引くにあたって、自らの経歴と事績をまとめたらしい。




正岡子規(まさおか しき)1867年-1902年
俳人・歌人。
 東京に上京して句作に励み、帝国大学文科大学中退後は新聞『日本』に俳句を連載、平明な写生句を特徴とする。
 1895年(明治28年)日清戦争に従軍し、帰途喀血して神戸港で下船。神戸病院に入院した後、須磨保養院で療養することになった。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」などが有名。


須磨海濱保養院之景. -- 生見堂(印刷), [1889-大正期]. -- 1枚 : 銅版画 ; モノクロ ; 24.8cm x 35.5cm. k.
30968516 / 所在: 貴重 / 請求記号: 498.16||Su

高浜虚子著『子規居士と余』より
…保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立勝っていた。眠るような一帆はいつまでも淡路の島陰にあった。




大谷光瑞(おおたに こうずい)1876年-1948年
浄土真宗本願寺派第22世宗主。
 3回にわたり中央アジアの発掘調査を行った。
 1903年、須磨に月見山別邸を建設。宮内庁がその土地を買収して武庫離宮が造営され、その後須磨離宮公園となった。


二楽荘と大谷探検隊 : シルクロード研究の原点と隊員たちの思い : 特別展 / 龍谷大学龍谷ミュージアム, 和田秀寿編. -- 龍谷大学龍谷ミュージアム : 京都新聞. -- 241p ; 30cm.
30920484 / 所在: 2階K2 / 請求記号: 216.4||Ry

一番北の果樹園が、今の離宮公園の駐車場あたり。青谷川に沿った道は75系統のバス道ですね。




尾崎放哉(おざき ほうさい)1885年-1926年
自由律俳句の俳人。
 旧制一高から東京帝国大学法科を経て、大会社に入社し、将来を約束されたエリート街道を走っていたが、退職後妻子と別れ、各地の寺を転々としながら、独自の自由律句を確立した。
 大正13年から9ヶ月間、須磨寺の堂守として暮らした。


Right under the big sky, I don't wear a hat : the haiku and prose of H?sai Ozaki / translated by Hiroaki Sato ; preface by Cor van den Heuvel ; introduction by Kyoko Selden ; : pbk. -- Stone Bridge Press, c1993. -- 142 p. : ill. ; 14 x 22 cm. -- (Rock Spring collection of Japanese literature).
30508583 / 所在: 1階D9 / 請求記号: 911.368||Oz




山本周五郎(やまもと しゅうごろう)1903年-1967年
小説家。
 関東大震災で被災し、須磨区離宮前2丁目の友人宅に寄宿していた頃の体験をもとにした『須磨寺附近』で文壇デビューした。戦後、『樅(もみ)ノ木は残った』『青べか物語』『さぶ』などの権威をきらう姿勢が読者の支持を得た。


須磨寺附近 ; 城中の霜 / 山本周五郎著. -- 新潮社, 1983.6. -- 440p ; 20cm. -- (山本周五郎全集 ; 第18巻).
30808928 / 所在: 2階K2 / 請求記号: 918.68||Ya




愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)1906年-1967年
「ラストエンペラー」として知られる中国清朝第12代の皇帝。
 辛亥革命で退位後、日本軍の後ろ盾により満州国の建国にかかわり、1934年日本の傀儡国家満州国の皇帝となる。


朝日新聞 1935年4月6日 東京/朝刊 満州国皇帝陛下御来訪記念号
聞蔵Ⅱより

武庫離宮に溥儀が宿泊
21日(日曜) 午後2時15分須磨駅御着、御旅館武庫離宮に入らせらる
22日(月曜) 御静養


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